世界の子どもと多文化共生 事例 3

長野県で考える「多文化共生」教育 中国語由来の子どもたちと共に歴史教育を

長野県歴史教育者協議会 (歴教会)  飯島 春光

世界地図

 ひとりの中学校社会科教師として、「歴史学習はいかにあるべきか」をいつも自らに問うてきました。

 人類の誕生から戦後史・現代まで、教科書には膨大な量のことがらが載っています。「はじめに時間をかけすぎて、現代は駆け足。戦争の時代もきちんと学ばないまま終わってしまった」などと、とかく言われてきました。自分自身の学びがまさにそうでした。通史を学び受験を潜り抜けても、例えば戦争学習の中で、地域に残る戦争遺跡 (松代大本営地下壕など) や、「満州移民」など、地域や家族の戦争体験を学ばぬまま過ぎていました。

 しかし、現実に戦争の傷跡を引きずりながら生きてきた人々が大勢おり、その子孫である生徒たちが目の前にいます。それらの人々の歴史と、学校での学習がどのようにリンクしていたでしょうか。人々の歴史を素通りして、頭上を通史が通り過ぎていなかったか、お互いに問うてみたいのです。

 人々の歴史に思いを馳せれば、例えば中国残留日本人の孫・ひ孫たちは、中国で生まれ、中国人として育ち、祖父母や曾祖母の祖国である日本に来ています。

 最近は日本で生まれた子も多くなっていますが、親世代は中国で育ち、中国の学校に通ってきました。そして家庭では中国のことば、文化の中におり、食事も中国料理中心です。こうした生活の中で、中国語を理解することができても、話すことができない、さらには理解することもできない子どもも増えてきています。

 逆の意味で同じようなことは、日本による植民地支配がもたらした在日韓国・朝鮮人の人々にも言えます。ブラジル、フィリピン、タイなどの国から来ている子どもたちにも共通です。

 かれらに、自分につながる歴史にどう向き合わせ、自分と家族に誇りをもって生きる力を育ててやるか。教科学習、とりわけ歴史学習の意義はまさにそこにあるのだと考えます。当然のことながら、差別のない、一人ひとりが大切にされる学級・学年集団、学校をつくること。それがもう一つの柱です。

 日本語で学ぶ力をつけてやることはもちろん大切です。一方で、母語で考える時間、母語を話す時間も保障してやることが大切です。言葉が通じなくてさびしい思いをしている子どもたちの心を開くのは、母語での会話です。支援員がいつもそばにいてやれる態勢を作ってやる必要があります。授業の時にそばにつくだけでは不十分です。母語を忘れず、母語に通じる文化を忘れないということも大切です。それは家族の中での交流、アイデンティティの確立にも通じます。子どもは日本語を覚えたけれど、親や祖父母と意思疎通できなくなってしまったという状況を招かないように支援する必要があります。

 そのことは一方で、日本人の子どもが、多文化を学ぶことによって、他の国の人を尊重する心を育てます。

 学習の中で中学生たちがどんな思いを抱き、成長してきたか、2018年版に引き続き、彼らの声を紹介します。

 県教委主催の進学ガイダンスでの発言です。


1人目

 私は、小学校4年生の終わりごろ日本に来ました。中国にいる時、自分に日本人の血が流れていることは知りませんでした。

 日本に来たときは、日本語の「あいうえお」もわからず、みんなが何を喋っているのか全然わからなくて、頭が痛くなりました。日本に来て、友だちもいませんでした。毎日、家でボーっとしていました。日本料理は、あまり好きではありませんでした。家で食べるごはんは、だいたい日本風でした。

 日本の生活に慣れていない私は、中国に帰りたいという思いばかりでした。夜になると、中国にいたときのことを思い出し、一人で布団の中に頭をかくして泣いていました。本当に悲しかったです。

 でも、5年生になって、クラスの人たちと簡単な日本語で話せるようになってきたので、何人かの友だちができました。友だちは日本のことや日本語をいっぱい教えてくれたので、日本語もだんだん聞き取れるようになってきました。でも話すことはまだ難しかったです。

 6年生になって、日本語がだいぶ喋れるようになって、友だちもだんだん増えてきたので嬉しかったです。中国人も一人増えました。K太さんでした。一緒のクラスになっていろいろなことを話すことができたので本当に嬉しかったです。

 小学校を卒業して中学1年生になるとクラスが違ってしまい、クラスには、中国人が一人もいなくなってしまいました。クラスの人は一人も知りませんでした。

 はじめは、みんなと仲良くしていたけれど、時間が経つにつれてぜんぜん話さなくなってしまいました。でも、ほかのクラスや部活の友だちがいたので、話すことができました。また、国際室には、中国から来た友だちがいるので、昼休みの時間などには、みんなとおしゃべりしたり、遊んだりできるので、私にとっては、一日の中で一番楽しい時間でした。

 2年生になると、新しいクラスになりました。このクラスは、男女関係なくみんな仲良しでいい人ばかりなので友だちをいっぱい作ることができました。

 3年生になると、高校受験に向けて勉強が難しくなり、点数も思うように取れなくなってきました。自分が目標にしている高校に行けるかどうか、とても心配しています。でも、一生懸命勉強して入れるよう頑張っています。

 ところで私は、将来、日本の大学を卒業したら、中国の大学へも進学してしっかり勉強し、自分に合った仕事を探したいと思っています。そして、世の中のために活躍できる人間になりたいと思っています。みなさんも頑張ってください。


2人目

 私は、中学1年生の時、家族の都合で、中国から日本に来ました。日本のことも日本語もよくわからないので、友だちができなかったらどうすればいいか、とても心配して日本に来ました。

 日本に来てからは、また いとこの Yさんに日本語と日本の学校生活について教えてもらいましたが、とても不安でした。

 何日か経ってから篠ノ井西中学校に通うことになりました。とても緊張しました。クラスのみんなの前に立って「○○○○です。よろしくお願いします」と自己紹介をしました。

 私の中国名は、Aと言いますが、日本名をつけて生活することになりました。家族と相談して、「B」の名前がいいと考えました。どういう漢字の「B」にするか、いろいろ考えました。先生に相談したら、Bと付けていただきました。優しい感じで誰からも愛されるような人間になってほしいという温かい願いが込められているので、私も家族もとても気に入りました。国際室の田村先生も「いい名前だね」と喜んでくださいました。

 学校生活が始まってからは、私は日本語が喋れないので、みんなは英語で私と話しました。

 でも、何日かして、みんなとまったく話さなくなりました。日本語が話せないのが原因だと思いました。このままではいけないと考え、それからは毎日、頑張って日本語を勉強しました。

 1年ぐらい経って、簡単な日常会話ができるようになりました。友だちもたくさん作りました。

 2年生になって、クラス替えがありました。みんなと友だちになりたい気持ちを持って、みんなと話しました。でも、先生がみんなに、「Bさんは、中国人だよ」と言ったら、みんなは、もう私と話さなくなりました。

 自分が思うような友だちがなかなかできませんでした。日本人は、中国人が嫌いなんだと思いました。私は、どうすればいいのかわからなくなってしまいました。こんな気持ちでまた1年間を過ごしました。そして、この1年間には、クラスの人にいじめられたことがあったので、何度も中国に帰りたいと思いました。私はクラスのみんなにとって空気と同じように存在感がないんじゃないかと思いました。

 このように、私は他の人の問題を探しているだけで、自分自身の問題を探したことはありませんでした。自分の心をみんなに開くことができず、内向的でした。

 でも、これは本当の自分ではありません。本当の自分を伝えたかったけど、言葉が原因でうまく伝えることができませんでした。

 中学生としての生活は、あと半年になりました。私は、クラスのみんなに本当の自分を伝えてみたいです。自分の明るいところを伝えていきたいです。

 最近は、日本語も上手に話せるようになってきたので、みんなと楽しい会話ができるようになりました。

 現在私は、高校進学を目指しています。希望する高校へ進学できるよう、今までのさまざまな経験を活かして頑張ります。そして、「B」という名前にふさわしい人間に成長していきたいです。みなさんも頑張ってください。


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