世界の子どもと多文化共生 事例 4

歴史的背景や社会情勢を知って、子どもの支援をしたい

ポルトガル語通訳 横谷 マリア

横谷さんの顔写真

出入国管理法改正から30年・日系ブラジル人の今

 入管難民法の改正で今年4月から外国労働者の受け入れが大幅に拡大されました。アジアからの労働者が増える傾向です。

 約30年前にも出入国管理法の改正で特にブラジルからの日系人が、いわゆる「出稼ぎ」として大勢日本で働くようになりました。あれから30年、子どもを育てたり、永住の在留資格を得たりして、継続的に日本で働いているにもかかわらず、今なおさまざまな壁に直面しています。

 派遣会社を通して仕事を紹介され、その会社が借りたアパートに住み、自動車運転免許や車が無い場合はアパートから派遣先の往復送迎をしてもらう。市役所の手続きの同行や通訳、病気になった時に病院へ連れて行って通訳してもらうなど、ブラジル人労働者にとっては会社がさまざまな点で頼りになる存在です。もちろん、派遣会社や工場でも、生活やブラジルへの仕送りのためにがんばっているブラジル人労働者を支援しながら雇用していますが、住まい、日本語能力の問題は大きく残っています。日本で暮らす一般的な日系ブラジル人にとってこの状況は当たり前のことです。

 会社は働く上で必要な支援はしますが、生活や子育てに必要な支援は届かないので、保護者は日本語の読み書きを学習するチャンスがありません。

学齢期の子どもと保護者への支援を通して

 私は1997年から市教育委員会などの依頼で日系ブラジル人の子どもたちの支援活動をしてきましたが、とりわけ日本語の壁は高いと思っています。日系ブラジル人の保護者は日本語の読み書きはもちろんのこと、日本語での会話の力も十分ではありません。そのため、児童・生徒も日本語が苦手で、学習全体に遅れてしまいがちです。

 この20年余りの間、保育園、小学校、中学校、高校で教育関係者からの説明をブラジル人の子どもにポルトガル語で通訳する仕事をしてきました。ポルトガル語はローマ字で読んだり、書いたりする言語ですが、日本語には漢字・ひらがな・カタカナの表記があり、読み書きはとても難しいのです。

 小学校1年生から入学するブラジル人の子どもの支援が一番難しいし、私自身が最もがんばっているところです。入学する前年に 入学予定の子どもと保護者は3回学校へ行きます。私も行って、通訳をします。入学式当日にも親子に通訳します。入学式の最中には声を出せないので、挨拶の内容などを紙に書きながら親に見せます。

 翌日には、教室で子どもの横に行き、先生の説明をポルトガル語で伝えます。これはとても大事な活動だと思っています。

 そして1年間、親子にはとても丁寧な指導が必要です。学校で使う行事用語、例えば入学式、授業参観、家庭訪問、遠足、運動会、音楽会は言葉の意味だけではなく、親に体験して欲しいというねらいがあります。そのために各行事の前に通訳や翻訳業務があります。

 丁寧に指導すればその結果、高学年になって自立し、母語の支援が必要なくなります。ブラジルから小学校に転入した子どもの場合には「勉強がおもしろい!」という実感を得るまで寄り添うので、2、3年はかかります。でもその後、母語の支援は必要ありません。

 最近、「日本語」の壁もあり、知的障害を見逃されているブラジル人の子どもも増えています。より丁寧な指導をし、医療機関に行く親子にも同行して通訳をしています。

 言葉の壁、障害の壁を乗り越えて、日本で子育てを選択した親に寄り添って、児童が学校生活を楽しく過ごすことができるよう、応援しています。

 中学校や高校での支援も難しいです。日本の中学校はまだ義務教育なので、労働基準法で退学しても働くことはできません。そのため、卒業まで頑張らせることができます。夢に向かって高校進学を選択する日系ブラジル人がだんだん増えてきました。最近、高校で2人のブラジル人国籍の生徒に対し、校内の別室で指導しました。

 ひとりは日本語の漢字が苦手でした。教科書のわからないページを開いて、「この漢字はどう読むのですか」と聞かれました。夢があって、自分からどんどん漢字を読む・書く力を付けて、高校の卒業と進学ができました。本人ががんばったからです。

 もうひとりも日本語の漢字が苦手でした。でも、教科書を持参せず、パソコン入力の本を持参して「この文書に書いてある漢字を教えてください」と言われました。この生徒はほとんど漢字を読めませんでした。小学校3、4年生の時に来日し、中学校にも在学していましたが、日本の小中学校に通っていても学習ができなかったことはとても残念でした。

 パソコンに入力できるために漢字の上にひらがなを丁寧に書きました。10分以内に入力ができましたが、各教科の勉強はあきらめていたそうです。私はそれを知らなかったので、彼は苦しい時期を一人で過ごしてきました。彼が6年間の義務教育で学ぶことができなかった内容を、高校の1年間で学ぶのは不可能でした。高校に1年間通って、自主退学になりました。専門学校で勉強する夢がありましたが、学力の壁を乗りこえられず、親と同じように派遣会社を通して工場で働くことになるだろうと思いました。

「移民元年」にあたり、教師も多言語習得を

 新しい在留資格で来る外国人は労働者です。しかし、家族は一緒に来られません。また、一定の日本語能力が必要とされています。そのため、しばらく学校で外国籍の児童・生徒が急激に増えることはないと思います。将来、家族が来日し、子どもたちが日本で教育を受けるようになっても、保護者が日本語をできれば、これまでの日系ブラジル人の状況とは違ってくると考えています。しかし、これからも外国籍の子どもたちに対する支援は手厚く継続しなければなりません。

 新 元号「令和」は「移民元年」とも言える時代です。さまざまな国籍を持つ外国人労働者やその子孫、さまざまな言語であふれるこれからの日本ですが、教育機関でも多言語対応がもっと必要になります。私のように、ブラジルから来て日本語とポルトガル語を使って学校で仕事する者だけでは足りません。これから学校の先生になりたい若者にもポルトガル語、スペイン語、中国語、タガログ語、タイ語、ベトナム語、インドネジア語、ネパール語、モンゴル語のいずれかの言語を習得して欲しいです。先生自身が外国語も学び、教え子である外国籍の児童・生徒と直接関わりができると期待しています。

知っておいて欲しいブラジルへの移民の歴史とその後

 1908年4月28日に神戸出帆の笠戸丸には781人の契約移民 (165家族733名、独身者48名) の他、自由渡航者12名が乗り、6月18日にブラジル・サンパウロ州・サントスと港に着きました。笠戸丸は第1回ブラジル移民の船でした。

 昨年、ブラジル最大の都市 サンパウロでは7月21日に「ブラジル日本移民110周年記念」の行事が開催されました。

 2008年には長野市でも「ブラジル日本移民100周年記念フェスタ」が開催されました。当時、日本に33万人以上のブラジル人が住んでいました。その年の秋にリーマンショックで大勢の派遣労働者は仕事を失い、大勢のブラジル人が失業者となりました。帰国支援金を請求した6万人以上の日系人は母国へ帰りました。

 昨年9月30日に長野市で「ブラジル日本移民110周年記念フェスタ」が開催され、私は実行委員長を務めました。当日、300人以上の来場者、長野県内外に住む日本人、ブラジル人、他の国籍を持つ方が集まり、楽しく交流しました。

 開会式のブラジル国歌は、塩尻市にあるブラジル人学校 (母国語教室) コレジオ・ロゴスの生徒たちが歌ってくれました。

横谷さんが歌っている写真 国家を歌う参加者の写真

国家を歌っている参加者


横谷さんのプロフィール

Maria de Lourdes Uema Yokoya (横谷マリア) ブラジル・サンパウロ出身、日系三世、永住者。来日27年目。日本人の妻、24歳と18歳の母親。マットグロッソ連邦大学 教員資格取得遠隔教育コース (平成25年卒業) 、バイリンガル日本語指導者育成講座 (平成26年度修了)


※分野 4 の記事は以上です。

次のカテゴリへのリンク 分野 5 の目次へ進む

他の記事へのリンク 分野 4 の目次へ戻る


トップページへのリンク トップページへ戻る