子どものための福祉 社会的養護のこれから 事例 4

不妊治療現場から養子縁組を広める活動紹介

諏訪マタニティークリニック カウンセラー 渡辺 みはる

渡辺さんの顔写真

相談から縁組まで

 諏訪マタニティークリニックの不妊症治療外来のこうのとり相談室は開室して15年が経ちます。相談室での相談内容として治療断念については大変多い相談事項であり、今後の人生の方向性のひとつとして養子縁組という言葉も患者さんから挙がるため、相談室としてもそれについてしっかり対応できるように情報収集に努めてきました。

 養子縁組についての相談があると、集積してある養子縁組に関する資料などを渡してできるだけ詳細かつ具体的な情報を提供し、患者さんが何らかの決断をするまでは何回でも相談を受け付けました。さらに相談室発行の機関紙に養子縁組を行なった方の手記を掲載した特集号を発行したり、「te to te」という名称の里親会を開催し縁組完了家族とこれから縁組に向かっていきたいご夫婦たちとの交流の機会を設けて、実際面においての詳細な情報交換を患者さん同士で行なえるようにしてきました。15年間で20組のご夫婦のもとに22名の子どもさんが縁組され、8組が児童相談所、12組が民間縁組団体のもので、全ケース特別養子縁組として縁組がなされています。 (信州医学雑誌66 (6) :435から441.2018)

 私が養子縁組のお手伝いをさせていただいたなかの2番目に養子縁組が叶ったAさんが、不妊治療から縁組に向かう過程と子育てについて心の機微を書いてくださった文章があります。それが一番に伝わるものと思いますので以下に綴ります。

Aさん体験談

 私は30代半ばから40才までの数年間、諏訪マタニティクリニックでお世話になった。体外受精の回数は相当数に上る。当初は毎回の治療のたびに大きく一喜一憂し、期待に反してダメだとわかった時のダメージは耐え難く、帰りは必ず車の中で大声で泣いた。

 そんな中、私が模索し始めたのが「里親になる」ことだった。治療を卒業して夫婦2人の暮しをエンジョイする、もちろんそれも大事な選択肢だが、それよりも、「血縁は無くとも“子ども”とともに歩む人生というのはどうだろう」、そんな風に思い始めていた。里親に関してまったく知識が無かったので、ネットなどでいろいろ調べてみた。そして、重要な点に気がついた。それは「年齢」だった。

 「里親」と一言で言うが、実際のところ近年は「特別養子縁組」をするケースが多い。従来の「里親」は、生みの親に代わって子どもを家庭で育てる役割をする人のことで、親ではない。子どもは生みの親の姓のままだし、里親とは法律上の関係はない (とはいえ、大事な“家族”であることは間違いないが…) 。対して「特別養子縁組」というのは、裁判所の厳格な審判を経て、子どもと生みの親との法律上の関係は無くなり、養親のみが子どもの親になることで、実の親子となんら変わりない関係になるというものだ。

 「里親」になることに、年齢的な規制はあまりないが、「特別養子」とするには、親と子の年齢差が“40歳”くらいまでが望ましい、というような表現をみつけ、私はおやっと気になった。中には、特別養子を望む人は40歳までと、年齢制限を設けた紹介機関もある。理由としては、子育てに費やす体力とか、教育のための経済力とか、そういったことがあるようだが、それにしても40歳ならもうすぐやってくる、さてどうしよう。治療の卒業をまだ決心できてはいなかったが、一方で、里親→養子縁組という方法も、私の気持ちの中では次第に現実味を帯びていった。

 ただ夫の気持ちは私とはかなり違った。“血のつながらない”子どもを育てるというのは、とても責任の重いことで、自信が持てないというのが当初の反応だった。子育ては多分とても大変なもので、その大変さを乗り越えていくには「自分の血を分けた子だから」という事実が無い限り、音を上げたくなってしまうのではないか、踏ん張りがきかなくなってしまうのではないか、というのが夫のとらえ方だった。私が「子どもなんて皆かわいい」と言ってみても、「そんな簡単なことではない」と、とても慎重に考えていた。それもそうだろうと思う。不妊治療の原因になっていたのは私なのであって、夫に問題は無かったのだから、なかなか“自分の子”を諦めきれない気持ちは強かっただろう。また、男性ならではの責任感の強さも、より慎重な発言につながっていたのかもしれない。その辺りの2人の話し合いは、しばらく平行線をたどっていた。しかし、年齢のことが気になっていたのも事実だったので、迷いを残しながらも、私たちは「里親登録」をした。

 里親に登録したところで、すぐに子どもとのご縁があるわけではない。なにより、まだ制度のこともしっかり把握し切れていないし、気持ちの整理ができているわけでもない。そこで、私たちは、いくつかの勉強会や研修などに参加した。実際に里親となっている方の話を聞いたり、児童福祉の専門家の話を聞いたり、本を読んだり。そんな中である時、夫の気持ちが変わった。当初は、「生みの親から子どもを引き離してしまうことになる」という抵抗感を持っていたのだが、研修などを通じて知ったのは、「世の中には、どうしても一緒に暮らしていかれない親子があるのだ」ということ。そして、里親や養親は、そういうやむを得ない事情の生みの親に代わって、子どもを大切に育てていくものなのだということ。夫の中で、すとんと胸に落ちたことがあったのだろう。そこから先は、具体的に子どもとのご縁に少しでも近づくため、どうしたらいいのかを、2人で考え行動した。そして、おそらくこの辺りで、私たちは、まだわずかな希望を持って続けていた治療を「卒業」して「里親」の道に進んだ。

 迷いがまったくなかったといえば嘘になるが、「血のつながり」よりも何よりも「親になること」を選んだのだ。そこで迷いを吹き飛ばしてくれたのは、先輩の養親さんたちの姿だった。血のつながらない家族とはどういうものか確認したくて、養親家庭の集まりに参加してみたところ、お会いした養親子は、どのご家庭も不思議なくらい顔が似ていた。体型や仕草もとても似ていたのである。血のつながりよりも、日々の暮らしこそが家族を作るのだと心底思った。そして、一人の養親さんがこう語ってくれた。「血のつながらない子どもを育てるといっても、そう難しいことではない。ごくごく普通に子育てしている」と…。私の迷いがすっと消えた瞬間だった。

 そしてしばらくして我が家にもかわいい「我が子」がやってきてくれた。子どもを迎えてから生活は一変し自由な時間はほとんどなくなった。毎日が本当に慌ただしく忙しい。でもこれはおそらく子育て中の家庭ではどこでも同じような光景だろう。何より、子どものことはかわいくて仕方がない。それは夫も同様で、お風呂に入れたり保育園に迎えに行ったり、とてもまめまめしく面倒をみてくれている。夫の友人が遊びに来た際、一杯やりながら一言、しみじみと、「親ばかってこういうものかっていうのがわかったよ」と語っていた。その言葉を聞いて、私は胸が熱くなった。

 長く治療を続けて、結局私は子どもを“産む”ことはできなかったけれど、子どもを“育てる”ことはできるようになった。子どもを産めなかった事には、後悔も未練もない。「この子がなにより大事」と思えるからだ。むしろ、治療がうまくいかなくて良かった。だってそうでなければこの子と出逢えなかった訳だから、とこんな考えすら浮かぶくらいに幸せだった。あんなにたくさん悩んで、涙して、夫ともとことん話し合って、だから今があるのだと、つくづく思う。くじけそうになってもなんとか自分を励まして、次の目標に向かって努力する、そんな力を、不妊治療を通して身につけることができたのかもしれない。それでも、一人ではなかなか越えられない時には相談室でお茶を飲ませてもらったり、ちょっと弱音をはかせてもらったり、そんな風に支えられてなんとか乗り越えさせてもらったのだと思う。いろいろと辛いことがあったからこそ、今ある幸せに「ありがたい」という感謝の気持ちを忘れてはいけないと、強く感じている。

 そしてその子が3歳の時、私たちはもう一人子どもを迎えることができた。下の子は出産直後に産院に迎えに行った。これも不思議なことに、血のつながらない姉弟なのだが、「顔」が似ているのである。縁以外の何ものでもないとつくづく感じた。

 血のつながりを補うために、一緒にいなかった時間と空間を埋めるために、里子・養子の子どもたちは、里親・養親の愛情 (や忍耐力?) を見極めるべく「お試し行動」をすることが少なくないし、また、周囲の人たちにどこまで事情を話すのか話さないのか、子どもへの「真実告知」はいつどうするのか、「ルーツ探し」をどう手助けするのか、ただでさえ不安定な思春期に自身の「生」に戸惑う子どもとどう向き合い支えるのか、など、里親子・養親子ならではの悩みは、その年齢ごとに次々発生する。でもそんな迷いがくることを恐れていても仕方がない。私たちはできるだけ子どもたちに寄り添い、支えてあげるしかないのだと思う、親として…。「血のつながらない子どもを育てることは、決して特別な事でも難しいことでもない」という先輩養親さんからいただいた言葉を、より多くの方に伝えたいと、そしてだんだん日々の暮らしの中で顔が似ていく微笑ましい親子が、一組でも多く生まれて欲しいと心から願って、この原稿を書かせていただいた。


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