子どもと共につくる地域 事例 1

地域に「余白を創り出す」 子どもの育つ場の回復に向けて

松本大学 向井 健

向井さんの顔写真

子どもを取り巻く生活環境の変化

 ここ近年、子どもたちの居場所づくりに関わる実践が数多くみられるようになってきました。このような子どもに関わる居場所づくりが求められている背景とは何なのでしょうか。筆者は、その背景のひとつには、子どもやその親たちを取り巻く当該社会の脆弱化に伴って、暮らしの場の中から失われつつある「ひとが育つ機能」を回復していく必要性が顕在化していくことと関連しているのではないかと考えます。

 それでは、子どもたちを取り巻く環境は、どのように変化してきたのでしょうか。かねてより子どもの生活世界から「3つの間」が失われたという指摘は、数多くの論者が指摘しているところです。ここでいう「3つの間」とは、①空間、②仲間、③時間を指すわけですが、考えてみると子どもたちが自分たちで遊びを創り出すことができるような空き地や遊び場のような場所は少なくなり、異年齢や同世代の仲間たちとともに協力をして何かを乗り越えていく機会もなくなってきています。さらには、子どもたちの学校以外の時間においても塾や習い事などに追われており、子どもたちが子どもらしくいられる時間は少なくなっています。

 子どもたちは、これらの「間」が保障される中で、何かに挑戦をしてみたり、仲間とともに乗り超えたり、失敗したりすることができるわけですが、そうした経験は、子どもたちにとって重要な成長・発達の機会でもあります。つまりは、「3つの間」が失われることは、子どもたちが育つ場が急速に失われていくことと重なってくる問題としても捉えることができます。

さらには、こうした問題は、子どもたちだけにとどまらず、その周りのおとなたちや子どもたちを取り巻く社会においても「ゆとり」がなくなり、そのことが結果として子どもたちの暮らしの中の「不安」を高めることにつながっているのではないでしょうか。ここでは、「家族」「職場」「地域」の3つの場を見てみることとしましょう。

 まず「家族」についてですが、ここ近年の家族の形態の極小化・多様化が著しく進展しています。かつて多くみられた三世代同居は少なくなっており、家族・親族内での相互扶助の機能はかつてよりも期待しにくくなっています。

 子どもをもつ親たちの「職場」に関しても、その労働環境は大きく変化をしています。労働者の生活の安定のための福利厚生や各種手当てなどを講じていた企業内福祉は縮小し、職場の雇用環境も不安定で劣悪なものになっています。子育て親の中には、非正規就労や長時間労働を強いられている人たちも少なくありません。おとなたちの生活の不安定化は、「子どもの貧困」がクローズアップされていることから見てわかるように、子どもたちの生活環境の悪化にも連続しています。

 子どもたちが育つ基盤としての「地域」も大きく変化をしています。かつては隣近所に子どもたちのことを真剣に怒ったり、褒めたりしてくれる地域のおじさん・おばさんが多く存在していました。それは同じ地域の中での生活水準は、比較的均一なものであったので、お互いの生活課題も共有しやすく比較的取り組みやすかったといえます。しかし、人びとの生活のありようが多様なものとなりゆくなかで課題は共有しにくくなり、お互いの生活が見えなくなってきます。そうした中で、子どもたちの課題に対して、不干渉・無関心な態度をとることが地域の中で広がっていっているように思われます。

子育ての「私事化」が広がる中で

 そもそも、「子どもを育てる」という営みは、私的な領域のみに閉ざされたものではなく、社会的な営みとしても開かれていました。しかしながら、これまで見てきたように「家族」「職場」「地域」の在り方も大きく変化していく中で、次第に子どもの養育が「私事化」していき、子どもの育ちを社会的に支える視点が薄くなってきているように思われます。 

 子どもの育ちを協働で支える関係性が損なわれた中では、子育て親に対して過大な養育の責任が圧し掛かってくることになります。そして自己責任を強いる他者からのまなざしを、養育者が内面化してしまうことで、誰にも「助け」を求めることもできなくなっていき、その結果として、問題が重篤なものになるまで抱え込んでしまう事例も少なくありません。そのような状況をもたらしてしまうような社会は、あまりに不公正で脆弱な社会であるといわざるをえません。

子どもが育つ場の回復に向けて:「余白」を作る

 それでは、どのように私たちの生きる社会において「人が育つ場」を回復していくことができるのでしょうか。子どもたちが豊かに育っていくことができる環境を保障していくためには、困ったときに「ヘルプ」を出すことができ、互いに支えあうことができるようなつながりをつくることが必要不可欠です。

 しかしながら、多くの人びとの生活において「不安」が広がっている現状を鑑みれば、簡単に人と人との関係が結び直せるわけではありません。だからこそ、現代において広がりを見せている居場所づくりにおいては、人と人とがつながることを阻害している要因を丁寧に取り除き、多様な主体が協働しあうのに求められる条件を地域に埋め戻していく役割を担っていくことが求められているのではないかと考えます。

 そこで本稿では、現代の社会において「人が育つ」機能を取り戻していくための居場所の在り方として、「『余白』を創る」という論点を提示してみたいと思います。そもそも、一般的な辞書的な意味では「余白」とは、「何も記されないで白く残っている部分」のことを指します。しかし、本稿では、下記のようにいくつかの意味を持たせて「余白」のある場 (=これから求められる居場所) を捉えてみたいと思います。

 ひとつめは、「余白」のある場とは、「自由に新しいチャレンジを試みることができ、たとえ失敗しても許容される“あそび”や“ゆとり”の部分」として理解してみたいと思います。このような「余白」は、一見すると“あそび”や“ゆとり”のことを「無駄なもの」のように捉えてしまいがちです。しかし、こうした「意図的に作られたあそびの部分」がなくなってしまうと、柔軟に物事が動かなくなったり、予期せぬ失敗やリスクに対して再チャレンジすることが許容される余地がなくなってしまったりすることでしょう。そうなると、途端に人々が不自由さを感じてしまうことになります。このあそびのある「余白」の部分があるからこそ、さまざまな多様性を受け止めあうことのできる寛容さが生み出されてくるのだと思います。“ゆとり”が社会の中から失われているからこそ、このような場を意識的に作っていくことが求められているのではないでしょうか。

 第2としては、「余白」とは「描かれているものがない白紙の部分」ですから、ここでは「余白」のことを「何かを自由に作り出していくことができる創造的な場」としても捉えてみたいと思います。

 私たちが生きている社会のありようを考えてみると、ありとあらゆるものが誰かによって既に用意されているルールやマニュアルによって覆いつくされてきているように思われます。そうした中では、「サービスの受け手」としての位置は与えられたとしても、自分自身で必要なものとは何かを考え、それらを創造していく主体であるという視点は失われがちです。そうなると、誰かの決めた枠組に委ねてしか生きられず、何か問題が生じたとしても「他人事」としてしか捉えられなくなってしまいがちです。そのような状況に飼いならされてしまうと、既存の枠組みでは対応できない問題が生じても、自分自身の置かれた状況を受け入れるしか選択肢はなく、状況を変えていくことをあきらめざるをえなくなるのも無理はありません。

 だからこそ、何かを自分たちの手で創り出している感覚を持つことができる創造的な場としての「余白」のある場を、私たちの暮らしの中に取り戻していくことが求められています。そのような手触りのある場を取り戻していくプロセスの中で、暮らしの課題に対する「当事者意識」は育まれていくのであり、課題を共有する他者との協働を可能にしていくことにもつながってくるのではないかと考えます。


向井さんのプロフィール

1982年、東京都北区生まれ。千葉県野田市で育ち、埼玉大学教育学部、同大学院教育学研究科、北海道大学大学院博士行為課程へと進学。2015年4月より現職。専門は、社会教育学・地域福祉論。地域を基盤とした子ども・若者の自立支援実践の学習論的分析に取り組むとともに、身近な足元での実践を大事にしながら、大学生たちとともに地域づくりに取り組んでいる。


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