作品の鑑賞が子どもの心をゆさぶるとき 郷土の作家の作品を通して

2010年度から2017年度 川中島中学校 美術科教諭 長谷川 功

長谷川さんらの写真

地元出身の版画家「上野 誠」との出会い

 2013年8月、川中島中学校の近くの「ひとミュージアム 上野誠版画館」を紹介した新聞記事に出会いました。「ヒロシマ・女」という版画が紹介されており、「被爆者」という重いテーマと同時に造形的な美しさに惹かれました。上野誠は既に故人ですが、作品に惚れ込んだ田島 隆館長が美術館を建て、8月のみ「女」を含めた「ヒロシマ三部作」が展示されるとのことでした。私は次の休日、上野誠版画館を訪れ、田島館長に作品をお貸りしたいとお願いすると、快諾してくださいました。しかし上野誠が東欧に比べて日本での評価が低く、資料が限られ教材研究が進まない中、大きなヒントをくれたのは生徒たちでした。

 私は生い立ちを調べ、事前に生徒に紹介しました。ユーゴスラビアで2006年まで続いた内戦が治まってきた時、「希望」という版画を使った記念切手が作られ、作者は「上野誠」という日本人で、しかも長野市川中島町の生まれ、と言うと生徒は驚きます。東欧で有名になったのは、1959年、東ドイツのライプチッヒ国際版画展で「ヒロシマ三部作」が金賞を受賞したからで、同時に金賞を受賞したのはピカソだよ、と言うとまた驚きます。驚きや感動から「もっと見たい」という「気持ち」を引き出せたのではないかと感じました。

ヒロシマ・女 1959年

「ヒロシマ・女」1959年

1年目 本物との出会い

 本物を使った授業の当日、美術室にやってきた生徒は後ずさりしながら「美術館みたい…」とつぶやきます。館長も来てくださるというので打ち合せをしておき、原爆について解説をしていただきました。

 一通り生徒が作品を鑑賞した後、感想発表を促すと多くの生徒が原爆の悲惨さを語る中、一人の生徒は「救援を待つ人々」について、「絵の端っこの方に憲兵って腕章をした人がいる。憲兵って書いてあるのに苦しんでいる人をまったく助けようとしてない」と語りました。別の生徒は「救助するはずなのにしていないので、差別みたいな感じがしました」と答えましたが、予想外の発言を授業に位置づけるのは難しく、この発言以上に授業の内容は深まりませんでした。

 あの発言からどういうゴールを目指せたのだろう、と少し悶々としながら、作品の返却に美術館を訪ね、「あの憲兵の発言はすごかったですね」と私が言うと、田島館長は「上野は確かに被害者、助けようとする人、そしてそれを見て見ぬ振りをする人の3種類を描いた」と言い、この言葉は私の胸に響きました。上野誠は戦後も原爆や戦争の被害で苦しむ人がいて、我関せずの「傍観者」にこそ訴えたい思いがあったのではと感じたのです。一方で、「授業をしていただいて良かった。美術館だと見る人は作品の前をサーッと通り過ぎていってしまう。授業だとあれだけていねいに作品を読み解き言葉にしてくれる。中学生は本当にすごい」と、館長もとても喜んでくれました。

救援を待つ人々 1973年

「救援を待つ人々」1973年

救援を待つ人々 の右下部分

「救援を待つ人々」右下部分

2年目 上野誠の思いに近づく授業を求めて

 2016年、私は自分のクラスでも授業をすることができました。今年も事前に上野誠や「ヒロシマ三部作」を紹介し感想を書かせましたが、「ああ、あんな風に自由に自分の解釈を話していいんだな」と生徒が感じれば、より深く読み解こうとする生徒が増えるのではないかと考え、あえて独特な解釈をしている生徒の名前と内容をメモしておき指名しました。ある生徒は、「ヒロシマ・鳩」について、「死んだ人のぶらさがった手に鳩が寄り添っている」と言いました。

 鑑賞を促すとIM生が「救援を待つ人々」をのぞき込みながら「憲兵と十字架を持っている人がいる」と言うので、「本当だね。憲兵はどんな感じがする?」と聞くと、「んー、自分もやけどを負っているのかもしれないけど…、あまり助けようとしている感じが…しない。目も外を向いている」と答えます。

 IM生は自分の解釈を発言してくれましたが、私は上野誠がそこにどんな意図を込めたのか、問い返すことができませんでした。普段からマジメなIM生なら「傍観者」の卑怯さという、作者の意図を語れたのではないかと思え、そこまで掘り下げることができなかったことが悔いを残しました。

ヒロシマ・鳩 1959年

「ヒロシマ・鳩」1959年

3年目 感じ方が深まった学び合いの循環

 2017年、過去2年の成果はそのままに、「ヒロシマ三部作」の初感を発表させると、ある生徒は「鳩」について、「人が傷ついていて、鳩がその血で汚れている感じがする」と言い、私が「すごいね。白黒なのに色も感じたんだね」と返すと、力強くうなずきました。

 鑑賞後に感想発表を促すと、YK生は興奮気味に語りました。「ケロイド症者の訴えに、正面から耳を傾ける人、ちょっと聞いている人、そっぽを向く人と、人々の哀しさが感じられました。特にこの左下の犬のヒモの先に絶対に人がいて、誰かに引っ張られているんです。引っ張っている人は見て見ぬっていうより『そんなのいいから、行くよ!』って、まったく耳をかさずに通り過ぎようとしている」と語りました。

 2年目の悔しさがあった私は、何でそんな人をわざわざ描いたんだろう、と問い返しました。彼は少し考え、「うーん、あ、被爆者の訴えを、関心をもって聞く人もいるけど、関心もなく通り過ぎてしまう人もいて、今の日本にもある悲しい現実を表現したんだと思います」。YK生が絞り出した言葉は、上野誠が追い求めたテーマに辿り着いたのではないか、と感じました。

 私は1時間の振り返りを書くよう促し、HM生を指名しました。「版画は黒と白しか色はないけど、戦争の苦しみ、悲しみ、痛み、怒りが全部伝わってきて、すごく衝撃を受けました。(略) そして長崎や広島の人の苦しみを、もっと人々に伝えたい、差別はだめ、という上野さんの強い気持ちを感じました」。私は「被爆者の苦しみを、こういう(通り過ぎる) 人たちに訴えたかったんだね」と続けた時、胸に熱く込み上げてくるものを感じました。3年間かけて、ようやく上野誠が本当にやりたかったことを語る、生徒の学びに立ち会えたように思えたのです。

ケロイド症者の原水爆戦防止の訴え 1955年

「ケロイド症者の原水爆戦防止の訴え」1955年

まとめ 3年間の実践を振り返って

 最後のHM生はその日の生活記録2日分にビッシリと、次のような感想を書いてくれました。

 「今日は美術で上野誠さんについての鑑賞をしました。美術室に入ると、なんか本物の美術館みたいでビックリ!(略) 中には目を覆いたくなるような絵もありました。それだけではなく、上野さんの『今の日本の現状を、もっと多くの人に知ってほしい』そんな願いが込められていました。だから私たちは、戦争を人ごとだと考えずに、一人ひとりが向き合っていかなければならないと思います(略) 」

 最後の力強い一文は、まさしく上野誠の思いであり、感動とともに上野誠さんのような「生き方」をしたいという姿勢までも学んだと言えます。実物が残るという美術の特性もあるのかもしれませんが、生徒たちは時空を越え、版画を通して上野誠と言葉を交わす以上の深い対話をしていたように今では思います。

 「地域との連携」が叫ばれても、私は「自分の教材だけで授業はできる」と思っていましたが、本物に出会い、主体的に作者の思いを読み解こうとした中学生の感性は、予想を遥かに超えていました。また生徒が「感動」を味わうことが、主体的な学びに向かおうとする姿勢を育み、自らの生き方さえ変えていくきっかけになることを改めて学んだ3年間でした。


次の記事へのリンク 特集 1 の次の記事を読む

他の記事へのリンク 特集 1 の目次へ戻る


トップページへのリンク トップページに戻る