黒姫童話館から「ミヒャエル・エンデの世界」

黒姫童話館 山原 清孝


黒姫と童話

 はじめに、黒姫と童話のつながりをお伝えしなくてはならないでしょう。信濃町と童話のつながりは、信濃町 初代町長 松木 重一郎と作家 坪田 譲治との交流から始まります。まだ現在の野尻地区が信濃尻村と呼ばれていた1939年 (昭和14年) 、坪田は初めて野尻湖を訪れました。

 童話作家として活動ができるようになった坪田譲治は以降毎年のように春に秋に湖でハヤ釣りに興じるようになります。晩年に「近頃少しづつ心の遠くにイメージのようなものが生まれかけて居ります。生まれかけているというより、それは昔からあったものかもしれません。その第一は、吾が故郷 (岡山県島田) … (中略) もう一つのイメージは信州上水内郡信濃尻村野尻です。」 (『坪田譲治全集7巻』新潮社「あとがき」より) と記しているほど深いつながりのある場所です。

 『スーホの白い馬』などの画家、赤羽末吉が山荘を建てたいと考えていて、あるとき坪田に話したところ、信濃町と松木氏を紹介しました。相談を受けた松木氏は地元の名士でもあり、自身が所有していた土地を破格の値段で紹介し、そこは赤羽末吉のほかに、いぬいとみこ、いわさきちひろなど児童文学にかかわる作家や画家、編集者が集う文化人の別荘地となりました。

黒姫童話館とエンデ

 ミヒャエル・エンデとどのようなつながりが?さぞゆかりのある場所なのではと思われる方も多いでしょう。実は信濃町とはまったくゆかりがなく黒姫童話館建設がきっかけとなりました。スキー場に多くの人が訪れていた1988年、黒姫高原牧場建物跡地の利用が町で検討されました。グリーン期の黒姫高原の集客を目的に、ふるさと創生事業を活用して「童話の森」計画を作成。その中心施設として黒姫童話館建設を予定していました。訪れる人びとに童話の心を正しく伝え、創造 (ファンタジー) の精神を育むような施設整備と活動を続けられることを目指していました。前述したように児童文学作家ゆかりの場所としていろいろな構想が生まれていったようです。児童文学の発信地となるように日本だけでなく、グリムやアンデルセンといったメルヘンの世界に…。そんな準備を進めていた1989年、担当者がある新聞を目にしました。「エンデ父子展」開催の記事です。『はてしない物語』がヒットし「ネバーエンディングストーリー」として映画化もされたドイツの作家です。来日されることを知った担当者は細い糸を手繰って、当時日本での父子展を手伝っていたドイツ文学者で、エンデの友人でもあった子安美知子氏と連絡を取ることができました。そして黒姫童話館への思いを伝え、エンデと直接お会いできるわずかな時間を取っていただくことができました。そして、日本で展示していたミヒャエルの資料を黒姫で展示したいことを伝えたところ、了承してくださったそうです。一期一会の出会いを大切にしてくれたエンデに改めて感謝します。

エンデと日本

 エンデと日本との一番のつながりは、エンデ・佐藤真理子夫人になるでしょう。生涯2度の結婚をしているエンデ。作家として活躍していたエンデは調べもののためにミュンヘンの国際児童書館へ行き、そこで日本語書籍を担当していた真理子夫人と出会いました。初めて日本を訪れた際も、真理子夫人が日本を案内しています。どうして日本だったのでしょうか?「ジム・ボタンの機関車大旅行」では東洋的な国としてフクラム国が登場します。また、幼少期に近所に住んでいた青年画家ファンティの家は子どもたちの遊び場でした。彼は子どもたちに絵を描きながら、創造したおはなしを語ってくれました。その絵をエンデは生涯「作家としての原点」として大事にとっていました。現在その絵は黒姫の展示室で見ることができますが、その中には東洋をイメージさせる絵もあります。第二次世界大戦での広島、長崎への原爆投下に衝撃を受けて作った詩「時は迫る」を書くなど、日本へ興味を持つ機会があったように思われます。自宅には畳の間があり、焼き鳥と日本酒を好んでいて、日常生活の中に日本が溶け込んでいました。日本には6回来日していて、初来日の際には弓道場や禅寺などを訪れています。日本には6回来日していて、最後は1992年『モモ』日本語出版100万部記念で、黒姫童話館にもお越しくださいました。そして、もう一つのつながりは子安美知子さんとの出会いではないかと思います。お二人の出会いは1985年、『エンデと語る』 (朝日新聞社1986年) 出版のためのインタビューでした。エンデの作品に魅了された子安氏にとって出版にむけてのエンデとの交流は夢のようであったのではないでしょうか。また、この出会いがきっかけで、毎夏ドイツに長期滞在され、エンデとの交流は『ハーメルンの死の舞踏』 (朝日新聞社) の日本語訳を任されるなど深く、エンデの死も真理子夫人とともに看取りました。

 黒姫からの願いに応えてくださったエンデとは、その後お話が進むなか、日本に来ていた資料だけでなく、エンデ家にある全資料と「今後とも私が生きつづける限り、新たに生じる資料もすべてさしあげます」との約束どおり、亡くなった後も遺品として2,000点にもおよぶ資料が収められました。展示監修をいただいた子安氏がいたからこそ日本にご自身の資料を預けてくださったと思います。エンデ資料はドイツにも数か所収められていますが、全体の9割近くは黒姫に収められていて、生誕から亡くなるまでの資料があるところは世界随一です。その資料を常設展示として黒姫で見ていただく事ができます。

エンデ作品について

 日本に大きな影響をあたえたと思われるのは、『エンデ全集』 (岩波書店) が日本で出版されたことです。海外の作家でも全集が出た作家はたくさんはいないですし、ドイツ国内でも全集は出版はされていません。エンデは自身の作品について、分析されたり解釈されたりすることを望まず、体験されることを願っていました。ぜひエンデ作品を改めて手に取って体験していただきたいと願っています。童話館で仕事をさせていただくなかで体験的な経験から少しお話をさせていただきたいと思います。あるとき童話館に見学にお越しになった出版社の方が「私は、エンデは絵本作家だと思っていました」と言われたことがありました。対談集などを除くと日本では約30作品が邦訳されているかと思います。子どものための作品とすると線引きが難しいですが、二十数作品となります。そのうち12作品 (短編で絵本の形で出版されているものを含む) 半分が絵本とすると、さもありなんといったところでしょうか。その作品を見てみると、言葉遊びの「おとなしいきょうりゅうとうるさいちょう」、親への反抗を切り取った「まほうのスープ」、学校が嫌いなところを切り取った「サンタクルスへの長い道のり」など日本にも似た絵本があり、子どもの姿は万国共通だと感じることができます。そして人の普遍的なテーマをとらえることができる作家なのだと思います。長編の物語である「ジム・ボタン」「モモ」「はてしない物語」は日本でも大変人気を博しました。改めて読んでみると『モモ』では時間をテーマに、『ハーメルンの死の舞踏』ではお金をテーマにした作品など、おとなになってもおもしろい作品だと思います。

 なぜあれだけの長編でも読み進めていくことができるのでしょうか?エンデは『闇の考古学』の中で自身の作品について、読者が絵をイメージできないようなら作品を書かないと述べています。作品の中で紡がれている色鮮やかな言葉の数々で一枚の絵が描かれていく。一冊の本を読み終えると、心の中に何枚もの絵が描かれていることでしょう。エンデの代表作である「はてしない物語」を改めて手に取ってみてください。おはなしの中で主人公バスチアンがコレアンダー古書店から持ち去ってしまう本はどのように描かれていたでしょう… 「あかがね色の絹で動かすとほのかに光った。 (中略) 二匹のヘビが描かれているのに気が付いた。…」そう、今あなたが手に持っている本がお話にでてくる本 (装幀と文章の関係もエンデ自身のアイデア) なのです!

 本の世界と現実世界が、読者の心を通じてつながる。本の無限の可能性を著している作品だと思います。そして、本ではなく、インターネットの仮想世界が広がる現在を見て、エンデはどんな作品を書くのでしょうか。


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