生きづらさを抱えた若者たち 自立のとびらを開くとき

松本市まちかど保健室 後藤 裕子

後藤さんの顔写真

15年ぶりの再会

 1月下旬、Mさんから「まちかど保健室に伺ってもいいですか?」と電話がありました。その声は聞き覚えのある声です。「Mさん?」というと「そうです。ご無沙汰しています」と落ち着いた返事が返ってきました。15年前、私がある中学校に勤務していたとき、保健室登校をしていた生徒です。あれから15年の歳月が経っています。卒業後は地元の大学を卒業し、市役所に5年間嘱託員として勤務していたことは、毎年の年賀状で知っていました。直接お会いできるのは中学校卒業後初めてです。

 松本駅からまちかど保健室のある、あがたの森まで「歩いて行きます」というので、私は玄関まで迎えに出ました。久しぶりにお会いできる懐かしい気持ちと、その成長ぶりを早く見たい気持ちで胸の高鳴りを抑えきれませんでした。玄関前を今か今かと行ったり来たりする光景を、知らない人には「あの人何しているのか」と不思議に見えたことでしょう。

 そうこうしている間に、信号機の向こうに颯爽と歩いてくる女性の姿がありました。「Mさんに間違いない」私はさらに歩道まで近づいて待ちました。歩道を歩いてきたMさんも私に気づいたようです。そして「後藤先生ですか?」と声を掛けてくれました。15年ぶりの再会です。すっかりおとなの女性に成長したMさんがまぶしく見えました。「きれいになったね」というと、Mさんも「先生もあの頃と変わらないですね」と返してくれる辺りは「おとなになったな」と感じました。あの頃はMさんと同じ目線で話ができたのに、今はMさんを見上げて話をするようになってしまい、老いを感じずにはいられません。

 まちかど保健室のことは、しばしばマスコミ等で取り上げていただいていたので知っていたようです。そういえば社会人3年目のMさんからの年賀状 (2016年) には、「先生のようにエネルギッシュに活動できるようにがんばりたい」とありました。

 早速、まちかど保健室を案内しました。開口一番「学校の保健室と違う」。何が違うのかを聞いたところ「ベッドがない」と言いました。確かにここにはベッドは置いていません。Mさんは中学生のとき「疲れる」と訴えて、よくベッドで横になっていました。ここはベッドの代わりに机と椅子を置いています。他にも体重を計る器具はありません。Mさんは摂食障害ではありませんでしたが、体重は気にしていたようで、よく体重計にのっていたのを覚えています。また保健室の必需品である消毒薬なども置いていません。当時Mさんの腕には無数の自傷行為の傷が生々しくあって、それが化膿していることもありました。傷を消毒しながら「力になれることがあれば協力するからね」と伝えたことも昨日のようです。

 しかしMさんとは1年間のお付き合いで私が異動となってしまいました。Mさんのことは後任に託すことになりました。ところが、新学期から学校の方針が変わったからといって、保健室登校は認められず、教室に戻るよう促されました。突然の方針転換に行き場を失ったMさんと家族は、放心状態になって、私の異動先の学校に相談にきたというわけです。

 前任校の校長先生に「何とか保健室登校を認めていただけないか」とお願いをしましたが、「職員会の方針で決定したことなのでできない」の一点張りでした。「保健室登校を認められないというならば、相談室を居場所にできないかと」お願いをしてみたのですが、勉強は教室以外は認めないと言われてしまいました。異動先の校長先生に相談をして、Mさんを私の学校の保健室に受け入れることにしました。そればかりか、勉強も異動先の学校 (自立支援学級) で受けさせていただけることになりました。これには私もMさんの家族も感謝でした。いろいろあったけれど卒業式は入学した学校に戻ることができました。

 私が知っているMさんはここまでです。

この目で確かめたくて

 久しぶりに会ったMさんは29歳になっていました。

 もともとおとなびた生徒でしたが、一段と落ち着きをみせた素敵なおとなの女性になっていました。Mさんがここまで来るには波乱万丈だったようです。母親からの便りでは、大学卒業後、福祉士として役所に勤務したころ、家族の中でトラブルが生じて、親子でカウンセリングを受けることになったこと。その後、Mさんは家を出て、一人暮らしと転職を試みることになりました。幸いC市の広域連合に正式採用が決まり「昨年から一人暮らしを始めました」との報告をいただきました。今年、母親からの年賀状には、「おどろきの連続で、これは良い報告です。なんと片付けのできる人に変身しました。独立した生活環境に置かれたことで、責任が生まれ、自立につながったようです」とありました。この年初めて、まちかど保健室へのお誘いをしました。というのも「親子でカウンセリングを受けています」と書かれてありましたので、カウンセリングの邪魔をしてはいけないと思ったからです。母親から「まちかど保健室へのお声掛けに心強く嬉しかったです」との返事がありました。カウンセリングを受けていても不安だったのですね。

 Mさんに「仕事は」と聞くと、バッグから名刺を取り出して私にくれました。そこには「C広域連合 介護保険課 介護審査係 主事 M 」の名前がしっかりと刻まれていました。私自身現役の頃は名刺など持った経験がなかったので、思わず「すごいね。かっこいいね」というと、クールなMさんの顔に笑みがこぼれました。「2月には100名の人を前に、介護の説明を担当することになっています。」と話すMさんの顔には、不安など微塵も感じられないほどでした。

 あらためてMさんにとって保健室とはどういう存在だったのかを聞いてみました。「あのころは自分でも良くわからなかったけど」と前置きをしながら、「教室では緊張しまくっていたことを覚えている」と話してくれました。今でもあの頃のことを思い出すと辛くなるとも話していて、Mさんにとって保健室は「安心できる場所」だったことは間違いないようです。

学校 (保健室) はだれのもの

 いまどこの学校にも「保健室」があって、そこには養護教諭がいます。休み時間になると何人もの子どもがやってきます。けがや病気、ちょっとした症状に対する処置から健康相談、悩み相談、性の相談、他愛のないおしゃべりにも対応します。「保健室登校」の子どももいます。毎日賑わっています。私が子ども時代の記憶にある保健室とはずいぶん違います。

 それは子どもたちにとっての「存在意味」が変化してきたことにあります。その変化にいち早く気づいた養護教諭たちが、子どもたちの気持ちに寄り添いながら、保健室を「安心できる空間」にしてきました。保健室が安心できるところと実感できた子どもは、人には話せないことを話してくれるようになったり、不安や苦痛を語るうちに素直な部分を見せるようになったりします。安心と信頼が保障される保健室だからこそ、子どもの見事な回復力や成長力を引き出せるのだと思います。

 保健室に来た子どもたちが必ず口にすることばがあります。それは「保健室はホッとする」。どの子も言います。このような子どもたちを「用のない者は入ってはいけません」とか「甘やかしている」とか「たまり場」といった批判や排除をしているだけでは事態は変わりません。

 Mさんのような、子どもの頃は何が原因なのかわからないが、ただただ教室が息苦しくて緊張しまくっている子どもや、不安、イライラをつのらせたりしている子どもがいることを、教師たちは理解する必要があります。そういう子どもたちが保健室に集まるから問題なのではありません。特に思春期はおとなに変化していく時期です。それはおとなへ成長するその途中のトンネルのようなものです。誰もが同じ時期に始まり、同じ時期に終わるものではありません。Mさんのように思春期を過ぎても迂余曲折しながら、最後は自分の力で独り立ちするまでに成長した姿を見て、中学時代の保健室登校は人生のほんの一部かも知れませんが、居場所としての保障がなかったら、違った人生になったかも知れないと思うのです。


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