不登校、児童生徒の現状と支援のあり方 兄弟の不登校を見つめて

日本福祉大学 社会福祉学部 社会福祉学科 4年 樋口 純也

樋口さんの顔写真

 日本では小学校から中学校の義務教育課程を経て、ほとんどの人は高等学校に進学し、その後大学もしくは就職といった形でこれからの人生を生きていく、またはそのような道を通り生きてきた方が大半だと思います。その中でも学校というものがあまり好きでなく、嫌々学校に通うという苦しい学生生活を送られた方もいるのではないでしょうか。

 私自身はと言うと、小学校の頃から「学校へは毎日行かなければいけないもの」「学校は当然通うもの」だと自然に思っており、皆勤賞とまではいかなくても小学校からこうして大学まで学びを進めてきました。しかし、学校という存在、そのシステムに対してうまく適応できずに学校に通うことができない、または皆と同じように授業についていけないなど、さまざまな要因によって学校へ行かない、行けなくなってしまう子どもたちもいます。また、私も不登校として学校に行けなくなった弟を目の当たりにしていることもあり、不登校に関する諸問題への関心は非常に高いのです。

 そこで、不登校を経験した弟を持つ家族の視点を大切にしながら、学校にいけない人と、その家族の心境なども含めて「真の不登校支援とは何か」について、そして、不登校児童生徒がなぜ当事者家族にとって大きい「悩み」となっているのかを論じていきたいと思います。また、そこに付随する形で、なぜ不登校になってしまうのか、果たして学校には必ず行かなくてはならないのかなど、さまざまな視点から根拠を示しながら考察も交えて進めていきたいと思います。

不登校との向き合い方 不登校は問題なのか

 不登校の子どもたちが増えてきた現状とその背景が多様化・複雑化してきたことに対し、木村 (2014年) は『社会的要求から起こってきたものだ』と結論づけています。世の中の社会、産業構造が変化し、それ以前の社会が求めていた人物像が変わってきたのだと。現実として今までの職人的な仕事が機械や海外の労働市場に取って変わられ、残るものは対人関係を中心としたサービス業であり、インターネットやSNSの発達も相まって、多くの見えないなかでの対人関係が繰り広げられたり、情報の発信や受信がある程度自由であったり、社会から臨機応変な対応能力、コミュニケーション能力を求められるようになった環境のなかで、子どもたちの問題として捉えられているのではないでしょうか。社会で生きにくくなった子どもたちが注目されるようになったのではないでしょうか。

 この裏付けとして、文部科学省が行なった「平成18年度不登校実態調査」によると、52.9%の子どもが「友人との関係」を不登校のきっかけとして挙げています。比較対象として、「平成5年度不登校実態調査」では、同じ項目の「友人との関係」が44.5%となっており、対人関係において大幅に数値が変動していることがうかがえます。

 また木村 (2014年)は、社会の不登校に対する見方がより子どもたちを難しくしていると言っています。不登校は2001年 (平成13年) 頃からひとつの社会問題としてクローズアップされてきました。文部科学省も以前は、「学校に行かないことは、個人の問題である」としてきましたが、1992年 (平成4年) あたりを境に不登校に対する考え方を大きく転換し、「学校に行かないことは誰にでも起こりうる。特別な子どもに起こるわけではない」という考え方を示しました。これは、平成28年度に公表された各都道府県の教育委員会をはじめとする、学校関係機関へ宛てた「不登校児童生徒への支援の在り方について (通知) 」の中でも、「 (1) 不登校については、取り巻く環境によっては、どの児童生徒にも起こり得ることとして捉える必要がある。」と明記されています。つまり、子育ての失敗や、育て方の間違いなどから起因する問題ではないことを明示しました。

 しかし、この考え方が徹底されてはおらず、未だに「怠けている」、「努力不足」、「甘え」という個人的な問題として捉えられ、間違った教育指導が行なわれているケースが懸念されています。また、木村が学校を訪れる際に「いじめゼロ、不登校ゼロ」というスローガンを目にしたことがあるといいます。この『いじめゼロ』に関しては社会的にあってはならないものとして理解できますが、『不登校ゼロ』に関しては、果たして不登校とはいけないことなのだろうかと疑問を投げかけています。

 実際にこの「不登校はいけないこと」という誤った認識が、さらに子どもたちを難しくさせています。つまり、学校に行くことが当たり前であり、行けなくなってしまった子どもに対しても『行かなくてはいけないこと』と認識させてしまう現状があります。つまりこの『学校へ行くことが当たり前である』という認識を改め、『不登校はいけないことだ』という根本的な考え方や風潮を転換しない限り、この不登校の問題は解決しないのではないでしょうか。

当事者の母親として Cさんのお話しより

 CさんはBさん (中1) の母親であり、家族のなかで不登校になったとき、不登校の悩みに直面し、苦労されてきました。

質問 1 息子さんの不登校を受け、どのように感じましたか

 最初は晴天の霹靂のような感覚でした。息子から感じる漠然とした不登校の雰囲気を受け、親としての不安を煽られました。しかし、その一方で不登校について理解を深めたいと思い、息子に何が起きているのか知りたいと思いました。

質問 2 不登校を受けとめることはできましたか

 親の自分にとっても『学校が当たり前』、『学校へは行かなくてはならないもの』という考え方があり、はじめは受け入れがたいことでした。自分の平静を保つ意味でも衝撃的な行動を取ってしまったことがあります (例:窓ガラスを割るなど) 。ただ、どんなことがあっても、息子に学校へ行くように促すことはできませんでした。

質問 3 不登校への対応で失敗したことは

 一向に学校へ行かない息子に対し我慢できなくなり、突然泣きながら息子に土下座をして、学校へ行くように頼んだことがあります。その後は息子も嫌悪感があり、親子関係がぎこちないものになってしまいました。やってはいけないことだったと今でも振り返ることがあります。

質問4 親の視点から不登校支援をどう考えますか

 解決へ向けて自ら行動し、支援を模索するなかで、さまざまな人との出会いが助けになりました。考え方も決して不登校が悪いわけではないと思えるようになりました。そして、息子にとって不登校は必要なものだったのかもしれません。本当の支援はその子に合った選択をさせてあげることだと思いました。

真の不登校支援とは

 結論として、真の不登校支援とは「当事者が当事者らしく生きられるための手助け」としたいと思います。研究調査の文献の中から不登校に対して理解が乏しいと、不登校の直接な原因を探そうとし、学校へ行かせようとする対応が明らかになりました。またCさんの事例でも、学校に固執するあまり、我が子に頭を下げるという失敗談を明かしてくれました。このように「学校へ行くことがすべて」と捉えられていることが実情として浮かび上がります。しかし、そうではなく、学校へ行っていない間も本人たちは考えを持っており、踏み出す機会をうかがいながら奮闘していると考えることが大切だと言えます。不登校を問題ではなく、ひとつの「生き方」として捉えることが「真の不登校支援」の第一歩なのです。その生き方を周りが受け止め、本人の望む選択ができるように支援していくことが重要ではないでしょうか。

学校と社会の在り方

 文献や事例から、学校そのものに対する不信感や、社会の常識として学校を押し付けられることに苦しめられる当事者の問題が明らかになりました。

 これに対し、まず社会構造を変革しなければ、この問題の根本的解決へは至らないと考察します。学校や社会を始めとする集団全体が、不登校を問題として捉えていることがうかがえます。

 そこで、私は学校と社会の在り方について『学校へ行けないことにより、当事者の将来が閉ざされたと悲観せず、学校以外の選択肢も存在するという幅広い視野を持って子どもたちを見守ること』が必要であると提言します。この視点により子どもの主張を認め、承認される社会が実現されれば、子どもたちはより自由に開かれた可能性のもとに生きられると思います。

おわりに

 本論文を執筆するにあたり、不登校について改めて理解を深める良い機会だったと振り返ります。私も研究調査を進める前までは、当事者を「学校に行きたくない意思表示として不登校になっている」と考えていた節もあり、実際はそのような要因がすべてではなく、むしろ本人たちは学校へ行きたくてもいけないという苦しみの中で生きていると知り、不登校に対する考えが改まりました。

※本稿は、2017年執筆の大学卒業論文から抜粋・改稿したものです。


参考

「不登校支援の輪をつなげよう 『不登校生の保護者会』を通して学んだこと 」木村 素也



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