不登校直後の心境

松本市在住 細田 和弘


はじめに

 文明の進展と学問の発展は、子どもたちの環境を一見豊潤なものとしてゆきます。この為、私たち先行の世代は若い世代に対して、ついつい蔑みのごとく羨望の文言を吐いてしまいます。

 「今の子どもたちはいいね。便利な道具と、多様な情報に囲まれて幸せなことだ。これほどの生活の一体どこに、不満な事柄があるのだろうか」

 …自分たちの世代は大変苦労をした。しかし、今の若者は、諸事、時代の恩恵を得ている…。このように、若い世代を見下す事は、自分たちの世代を優位な立場に置くことですし、また、己の抱く若い世代への不満を、優越感のもとに解消してくれることです。

 私はこの種の差別を容認しません。しかし、この私もまた、ついつい安易に若い世代の環境をうらやんでしまいます。

 私は1980年代に中学校・高等学校に在籍していました。当時は児童精神医学の研究も、ほとんど一般の社会に浸透していませんでした。保護者・教育者・医療者を含むおとなたちの常識は、不登校の子どもにとって過酷なものでした。

 現代、児童精神医学の研究は飛躍の発展を遂げています。また、国家の行政や教育の現場も、児童精神医学の成果を取り入れています。少なくとも外観上、“子どもの心を取り巻く環境”は多大な変貌を遂げました。

 このため、私はついつい「これ程の環境が僕の学生時代に整備されていたら、僕の人生も、もう少し生き易いモノとなったんじゃないだろうか」と思ってしまうのです。

 しかし、この感想は、所詮“教育の現場を離れた傍観者”の感想でした。

 このたび私は『長野の子ども白書』の方々に、「“子どもの心を取り巻く環境”は、依然として過酷な様相を帯びている」と教えられました。私は驚愕と共に、己の不明を恥じました。

 子どもたちの環境は、先行の世代によって変貌の一途を遂げます。しかし、どれ程豊潤な環境を整えても、“家庭・学校・地域の内に己の居場所を見い出せない個性の持ち主”や、“家族・教師・学友との間に信頼・愛情の関係を築けない個性の持ち主”は、おそらく絶えない事と思います。

 しかし、今の私は、“子どもの心を取り巻く環境”に関して、なんら有意義な見解を持ち合わせていません。従って、私は自分の体験を偽りなく寄稿したいと思います。

中学2年生の冬

 私の誕生日は12月14日です。従って、疲労困憊の末、遂に学校への登校を拒否した時、私は未だ13歳でした。

“私の信じていた唯一の現実”は、不登校の為に瓦解してしまいました。

 現状のまま、毎日規則正しく中学校へと通い、勉強・部活に励み、友だちと遊ぶ。“偏差値の高い高校”に進学して、その後“偏差値の高い大学”に進学する。さらにその後、“己の希望に沿う会社”に就職して、家庭を持ち、終生家族・地域のために働く。

 中学2年生の私は、この現実を歩む以外、“私たち人間の生き方”を、まったく思い描くことができませんでした。当時の私にとって、この現実は唯一無二の世界観・人生観を意味していました。

 もちろん、私を取り囲むすべての方々も、この世界観・人生観を共有していました。“両親・親族・友人・教師・地域の人々”にとって、この現実を歩むことは、疑いようのない時代の常識を意味していました。

 しかし、私はこの現実を踏み外してしまいました。“本来在り得ない世界”に、己の身を転落してしまいました。

 私は、不登校に伴い、「僕の人生は終わった」と実感しました。学校への通学を諦めた以上、私はもはや自分の将来像を、全然思い描くことができなくなりました。

 私は、“周囲の人々の信じている価値観”を逸脱しました。従って、私の存在は不登校を境として“周囲の人々の批判の対象”となりました。私はこの事態を痛烈に己の意識に実感しました。

 当然のことです。私自身が誰よりも、“絶対の価値観を逸脱した自分の存在”を、批判の対象としていたためです。

 私は、誰よりも一層、自分の存在を責め立てました。誰よりも一層、自分の存在に、「やり直さなければならない、立ち直らなければならない」と苛立ちました。

 それゆえ私は、他者の批判に激しい反発を抱きました。「やり直さなければならない、立ち直らなければならない」という、他者の説諭に激しい憤怒を抱きました。

 また、私は不登校の自分を、“罪人の如く後ろめたい存在”と感じていました。この負い目のため、私はいよいよ他人との距離を置いてゆきました。

 私は、環境の内に自分の居場所を失い、また、家族・教師・学友を始め、多くの人々と結んでいた心の絆を失いました。

 生誕して、未だ13年間の歳月しか経ていないのに、私は既に、人生の終焉に直面していました。「自殺しか無い」 “唯一の現実”に、復帰の望めない私は、自殺以外の進路を思い描くことができませんでした。

 両親・祖母・親族は、“私がなぜ学校に行かないのか”深く心配してくれました。担任の先生も、友人たちも、私の部屋を訪れてくれました。

 周囲の人々は不登校の理由を知りたいようでした。“私の不登校に当然理由がある”と考えているようでした。

 しかし、私は本当に“自分がなぜ学校へ行けなくなったのか”、その理由がわかりませんでした。“自分が、なぜ、あれほど疲労困憊してしまったのか”、また、“自分の内から、なぜ、これほど登校への拒否反応が生じてしまうのか”、その理由がどうしてもわかりませんでした。

 学校へ行けば、多くの友だちと十分楽しい時間を過ごせました。特別不満な点もありませんでした。

 決して周囲の方々のみが私の不登校を悩んでいたわけではありません。私自身が“もうどうしたらいいのかわからないほど”自分の不登校に悩んでいたのです。

 転校の話も幾度か持ち掛けられました。おとなたちは、今の学校に不登校の原因を求めているようでした。「学校さえ替えれば、私が再び登校の意欲を抱く」と考えているようでした。

 しかし、私の意識は明白に、“学校を含む社会の総体”と乖離していました。学校への通学に、まったく無関心・無気力となっていました。そもそも、今の学校は本当に居心地のよい大切な学校でした。その学校へすら通えない以上、転校の話はまったく論外の話と思いました。

 また、児童相談所の話もいく度か持ち掛けられました。しかし、私は、峻拒の態度を表しました。

 私はもう既に社会への帰属を諦めて、自殺の決意を固めていました。それなのに、なぜ今さら社会の一機関 (児童相談所) へと伺わなければならないのでしょうか。そもそも、未来の無いこの私に、“相談したい事案”など有り得ないのです。

 「僕は、他の子たちと全然違う。他の子たちと十把一絡げの扱いを受けたくない」

 当時の私は、この種の“誇り”を唯一の拠り所としていました。

 いずれにしろ私は、他者の心に深く傷付いていました。たとえば、“信頼していた友だち”に、自分の気持ちを打ち明けました。しかし、その話は即座にクラス中の生徒へと吹聴されてしまいました。当然、ほかのクラスや各生徒の家庭へと伝播してしまいました。

 “信頼していた教師”は、私との話を私の両親や他の教員たちに報告していました。“信頼していた親族”は、私との話を、私の両親や多くの親戚に報告していました。

 もちろん、みな心から私の事を心配してくれていたのでしょう。しかし私は、彼らの態度に深く憤り、多大な不信感を抱きました。そして私は、他者に対して一切自分の気持ちを話さなくなりました。

 その一方、不登校以前とまったく同じ態度で私のことを迎えてくれた例外の人もいました。私はその人の人柄に、大きな救いを感じていました。

最後に

 私はこの三十数年、別段、既存の秩序や既成の常識を、批判の対象と見なしませんでした。

 しかし、“既存の秩序や既成の常識を絶対の基準として、他人の評価を下す”、この差別意識の持ち主を、常に批判の対象としてきました。

 私自身、今もなお、不登校時の自分を裏切らないよう、あの頃の自分を傷付けないよう、己の人間性を陶冶してゆきたいと思っております。


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