灰色の長野の小学校からカラフルな世界の鳩間島 海浜留学へ

大学4年生 小山 結希菜

小山さんのイラスト

鳩間のことを知って思ったこと

 小学3年生の9月か10月頃、私が家にいるとき、母が本を持ちながら、「沖縄に鳩間島という離島があって、そこには学校があって、学校に行けなかった子たちがその島の学校には かよっているらしいよ」という話をしてくれました。その本はパラパラーと見たぐらいでしたが、母の話を聞いて、「私が行ってもいい学校があるかも」と思いました。

 その頃の記憶はちゃんとあるわけではなく、思い出せるのは一人でずっと見ていた昼間のアニメ番組と、イラストマンガを描き続けたこと。お昼ご飯によく買ってきてもらったパスタのカップ麺とお寿司を食べていたことぐらいです。そのとき、父が半年間、看護休暇を取りました。

 私には、世界が灰色に見えていました。自分が地元の学校にまた通う姿なんて全くイメージできませんでした。でも、「学校」には行きたいと思っていました (というより、「行かなきゃ」「行くべき」「行くもの」か?) 。

 だから鳩間の話を聞いて、ここなら私でも行けるかもしれない、今のこの「学校に行きたい?行かなきゃいけないことはわかってるけど、どうしても行けない」という気持ちから抜け出せるのかもしれない、逃げられるかもしれないと思いました。

鳩間に行ってみようと思った理由

 鳩間のことを知った時から、何となく自分はここに行くだろうなと思っていました。多分私は、今の自分を、何の条件もなしに、そのまま丸ごと自然体に受け入れてくれる学校に行きたかったんだと思います (地元の学校にも受け入れてもらえたかもしれないけど、あそこに行くならこういう状態にならないといけないみたいな条件を自分で自分に付けてしまって、がんじがらめになっていたんだと思います) 。

 そして、鳩間はきっと私が求めている場所だと漠然と感じ、思ってました。

 「鳩間島に行ってみたい」と言ったら、両親がすぐにいろいろなところに話を聞いてくれて、「とりあえず一週間の体験入学に行ってみてかららしい」とのことだったので、その年の11月に父と鳩間島へ行きました。

 そこで1週間過ごして、学校は5日間あるうち1日休んだだけでした。「体験入学をする前は、1日も行けないんじゃないか」とか思っていた私にとって、1日休んだだけで4日間も学校に行けた、ということはものすごく自信になることで、「なんだ、ここなら自分でもできるじゃん」と思えたのです。

 この体験入学で、私は鳩間に行くことを決めました。

 その時の私にとって、沖縄という場所の遠さとか、家族と離れて暮らすこととか、それほど重大なことではありませんでした。それよりは、「自分が行けるかもしれない学校がある」ということ、ずっと胸にあるズンと重いこの気持ちが軽くなるかもしれないということの方が、よっぽど重要なことだったのです。

鳩間で2年間過ごして感じたこと

 鳩間で過ごした2年間は、私にとってかけがえのない時間です。もちろん、嫌なこともあったし、傷ついたことも、傷つけてしまったこともたくさんありました。でも、最初に思い出すのは鳩間のきれいな海と、灯台と、家と、学校と、そこで一緒に過ごした島の人たち、友だち、先生との思い出ばかりです。

 里親の豊さんと結十子さん。里子は、私以外は中学生の○○兄 (にい) ○○姉 (ねえ) 3人。周囲4.2kmの島をいろんな道を使って散歩したこと。灯台がある中森に行くのが大好きだったこと。海を観ながら大きな夕日が沈んでいくのをぼーっと見とれていたこと。桟橋から海に飛び込んで泳いだこと。浜にそれぞれ名前があって、お気に入りの浜に行って泳いだこと。夏の夜、天の川を見に桟橋に行って、寝ころんで満天の星空、流れ星を時間も忘れて見上げていたこと。よく遊びに行ったお店で生まれた子ヤギを抱っこさせてもらったこと。運動会の1等の景品になる野生のヤギ捕りに島の人と学校のみんなで行ったこと。参加賞のグルクンの唐揚げを用意するため、真っ黒に日焼けしながらたくさんグルクンを釣ったこと。みんなで秘密基地を作って遊んだこと。5年では小中学生15人。6年の時は11人。5年生の総合学習で『戦争マラリア』についておじい、おばあから聴き取りをして発表できたこと。6年生のクラスは私一人だったので、授業の進みが早いと図工の時間を2時間続けてやったりして、絵をたくさん描いたこと。鳩間島の伝統芸能を本気で教えてくださった島のみなさんの熱心さに圧倒されたこと。みんなで練習して三線を引けるようになったこと。豊年祭で着物を着て、お化粧してみんなの前で鳩間島伝統の踊りを踊ることができたのも結十子さんのおかげ。豊さんに釣りに連れて行ってもらったこと。夜豊さんがヤシガニ取りに連れて行ってくれたこと。島でたった一軒の売店でお菓子 (4種類くらいしかなかったけど) を買ったり、自動販売機でジュースを買うのも楽しみだったことなど。存分に充分遊んで学んだ2年間でした。思い出いっぱいの生活でした。

小山さんが描いた水彩画

 長野で過ごした小学校1年生から4年生まで、私の思い出せる世界は灰色ですが、鳩間で過ごした小学校5年生、6年生はとってもカラフルな世界です。カラフルといっても、楽しいことばっかりだったわけじゃないし、しんどいこともたくさんありました。

 でも、だからこそ、それを全部ひっくるめて鳩間で過ごした2年間があったから今の私があるんだと、自信を持って言えます。その時の自分が持っている力を全部使って生きていたと思います。

 私の生きる力を引き出してくれた鳩間島。私にとって鳩間島は、安心して自然体の自分を出せる場所でした。

 家族以外の人と関わっていくのってすごく難しいし、うまく自分の気持ちを伝えることもできないことが多かったけれど、鳩間島で出会った人たちはみんな自然体で (というかほぼ家族みたい) 、誰かと関わることの難しさ、でも、関わるからこそ生まれる感情、人と人との絆 (結マール) 、楽しさ、嬉しさ、喜びを分かち合い、みんなとずっと一緒にいたからこそ知ることができました。島の皆さんみんなに育てていただきました。

 鳩間で私は、『生きる』ことのリハビリをしていたのかもしれません。あの時、鳩間に行かなかったら私はどうなっていたんだろうと思うと、まったく想像がつきません。それぐらい、鳩間での時間はあの時の自分に必要だったもので、ある種、鳩間に行くことは必然だったのかも、と思うくらいです。

学校に行けなくなった時間について、今感じていること

 学校に行けなかった時の世界は灰色だった、と書きましたが、だからと言ってその時間が私にとって、最悪で、必要ないものだったとは思っていません。あの時の自分にはそうすることしかできなかったし、『学校』というものが酷く恐ろしいものに思えて、そこから逃げていました。友だちもいましたが、居場所がないと感じたし、居心地も悪いと感じました。自分の気持ちも心も理解されないもどかしさ…わかってもらえない苦しさ、辛さ。

 でも別に、逃げることがダメなことだったとは今は一切思っていないし、私にとって必要な時間だったのだ、と思っています。今でも、その頃の時間、その頃の自分の気持ちを思い出すと涙が出ます。「なぜ私は教室に入れないんだろう?ずっとこのままなのかな?」、当時の不安で苦しい気持ちが溢れてくると、泣いてしまいます。

 傷ついた心を抱えて学校へ行くことなんて考えられなかったし、気持ちを言葉にすることもできなかったです。学校に向かおうという元気もありませんでした。

 でも、「そんなふうに感じた自分も悪くないな」と思います。学校に行けなかった自分がいたから今の自分がいるし、出会えた人がいるし、学校に行けなかったから、鳩間に行くことができて、他の人にはできないような豊かな経験が語りきれないほどあります。

 今の自分がやりたいと思っていることも、その時間があったから思えたことです (こんな風に考えて言葉にできるようになったのは最近ですが笑) 。

 私にはダメなところも、できないこともたくさんあるけれど、それも全部ひっくるめて私は私です。今の自分が好きです。そう思えるのは、『学校に行けなかった自分』と向き合って、そんな自分を、ただそのまま丸ごと受け入れて抱きしめることができたからです。そんな風に思える自分になれてほんとうによかった、と今は心から思います。


※イラスト・水彩画は小6の時に描いたものです。

※不登校だったのは小2の7月から小4までです。


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